Neues Museum / David Chipperfield
最近また思い出すことが多いのがDavid Chipperfield設計のNeues Museumで、
3年前に観に行ったけどあのときの感覚は今でも強く身体に残っている。
その後ロンドンで観た展示によって補完された部分も多いのかもしれないけれど、
既存の建物に対してどうやって振る舞っていくかについてのものすごく繊細な手つきは、
ひとりの建築家が10年以上の時間を費やすことができたという条件を抜きにしても極めて特異であると思う。
戦争によって破壊された建物を改築していく作業は、
ともすると原状復帰的なものになるか、あるいは新たな部分をつけ足すことで
古い部分と新しい部分のコントラストをつくりだすかになってしまうことがとても多いのだけれど、
そのどちらでもなくそれぞれの空間に対してそのつど
「どの状態まで戻すか?」「どこまで新しいものを付加するのか?」
という既存の建物がもつ記憶のレイヤーについての検討を注意深くくり返して決定していくことは、
ともすると全体の統一感を失いかねないし暑苦しく感じてしまったりもするのだけれど、
この建物は全然そんなところがなくて、それはものすごく優れたバランス感覚のなせる技だなと思う。
どうしてこの建物のことを考えるようになったかというと、
自分の身の回りでもまだ壊す必要のないものが何のためらいもなく
建て替えられていってしまうことがけっこうあって、
もちろんそれらはこの建物のように歴史的なものでも何でもないので
そういった価値を求めてしまうと確かにないし比べても意味はないのだけれど、
それでもその建物が過ごしてきた(少なくとも人間からしてみれば)短くない時間があって、
それに対してリセットボタンを押してしまうのはあまりにも早急な判断であるように思えてしまうからだ。
もちろんその方がわかりやすいし簡単ではあるのだけれど、
今そこにあるものを更新していくことの方が手間はかかるけれどよっぽど豊かであるし、
時間を経てきたものにしかない質感を大切にしてさらにそれを受け継いでいく視点は
何かしら参照する部分があるはずだと思う。
特に地方都市においては建物の所有者の高齢化と後継者の問題を考えると、
そっちの方に頭を切りかえていかないと決定的なダメージを負ってしまいかねない時期に来ているように思う。
個人的には保坂和志さんが前に「家に記憶はあるのか?」と言っていたのがすごく印象的で、
仮にそうであると考えてみると建物なりまちの持つ時間の捉え方を少しずらすことができる気がする。
記憶を大事にするというとすごくしめっぽくてノスタルジックなものに思われてしまうかもしれないけれど、
別にそういうことではなくもっと単純にそれまで積み重ねられた時間の蓄積であって、
そこにはひとりの人間では決して獲得することのできないいい意味での複雑さがある。
あるいはお茶を習い始めて感じていることは、
その所作にはこれまで長い時間かけて脈々と培われてきた先人たちの身体の記憶が埋め込まれていて、
それをなぞることでその一端に触れることができるのではないかということで、
これはお茶に限らずいわゆる伝統芸能にも言えることなのだけれど、
その中には説明しがたい美しさがあって、
それは何度も繰り返し稽古をしていく中でだんだん身体が馴染んでいって
ある時点で昔の動きとつながって得ることのできるものなのだと思う。
そしてそのときに大切なのはむやみに型を疑うことではなく一度まるごと受け入れてみるということで、
最近はなんでもかんでもぶち壊してしまう方が派手でわかりやすくもてはやされがちだけど、
一度前提を受け入れるということはそのときはすべて理解しきれなかったとしても
あとになってその大切さに気づくということは間々ある。
あいかわらず東京ではアイコニックな建物をスターアーキテクトに求めるか
精いっぱい歴史的な建物を元通りに復元することしかできなくて
(もちろんそれはそれで価値があるにせよ)
それはそれで不満もあるのだけれど、
とりあえずは今自分のいる場所とその周りで何ができるのかということを考えて
地道にやっていきたいなと思う。
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