2013/02/03

音と空間


(写真は去年多治見でおこなわれたインスタレーション「音の家 “void-inflection TAJIMI version”」のときのもの)

現在ぎゃるり百草で開催中の「百草冬百種展 奈良から」に行ってきました。

いちばんの目的は去年多治見で開催されたイベントに参加されていたsonihouseの展示のため。
あいにくワークショップには参加できなかったのだけれど、
タイミングよく鶴林さんとゆっくりお話できたし、
閉廊後そのまま安藤さんご夫妻やスタッフのみなさんとゆっくりいろいろと体感させていただけたのでとてもよかったです。
(みなさまどうもありがとうございました!)
展示は武田晋一さんとの共同インスタレーションで、正十二面体のスピーカーふたつから音が流れていたのですが、
最初はどこから音が出ているのかわからないぐらいで、まさに空間全体で音を鳴らしているという感じでした。
(実際、炭や緩衝材を置いたりして音を調整していました。)
今回特に印象に残ったのは、ワークショップで配布されたプリントの中で砂原義徳の「liminal」1について書かれていた、

電子音がスピーカーからの音が原音になるということ。
電子音が物質的なエネルギーを持ち空間に存在し飛び交うということ。視覚と触覚を刺激する。


という文章でした。
これは、いわゆるエレクトロニカのような音楽は原理的に音そのものは曲を作っている時点ではまだ存在していなくて、
その信号が音として外部に発せられてはじめてそれが音として存在するということで、
よく考えてみれば当たり前のことなのかもしれないけれど、これにははっとさせられました。
というのも実際問題、曲を作ったところでその本来の「音」が聴けるかどうかは聴く環境に左右される、
あるいはそもそも原理的に絶対的な「音」そのものというのは存在しないということになるかもしれないからです。
evalaさんがsonihouseのスピーカーに出会ったときに、
「自分はこのスピーカーで音を鳴らすために曲を作っていた」と言っていたそうなのですが、
そういう意味で曲をつくるということはコードを作ることだけではなく、
音が発せられる空間ないし環境までつくることなのだということになります。

自分が最初に音と空間について考えはじめたのは池田亮司さんのライブを観たときで、
当時は名前を知っている程度だったので友だちに誘われてなんとなくついて行っただけだったのですが、
かなり衝撃を受けました。
彼のようなアーティストは、ただ曲をつくるというのではなくて
それがどのような環境でどうやって体験されるかについて深く考えているし、
そのぶん空間処理能力もものすごく高いのだと思います。
そして実際に話してみてもものすごく建築に対する造詣が深くてまた驚かされました。
(鶴林さんも最終的には建築をつくりたいとおっしゃっていました。)
ふだん音楽を聴くときというのはメロディや歌に耳を奪われてしまいがちで
なかなか音そのものを聴くというところまではいけませんが、
ああいった音楽を体感してみるとそういった意識で音に触れることができて他では得難い経験でした。

最近では音楽はどこでも持ち運びできて聴けるようになって、
もちろんそれぞれでの音質での良し悪しはあるにせよデジタルである限り体験としてそこまでの決定的な違いはありません。
そんな状況の中で音そのものにこだわるというのは、空間あるいは環境までも意識していかなければならず、
そのすべてをコントロールされた状態で音を体感しようと思えばその場所まで実際に足を運ばなければならなくなります。
そしてさらに言うなら音を体感するというのは必ずしも聴覚だけを使うのではなく、
視覚や触覚も大きく影響してきて、自分たちがいる空間の手触りみたいなものはとても大切になってきます。
だからただ音の鳴りが完璧に制御された専用のコンサートホールが常にいちばんいいかというとそうとも限りません。

そう考えると音を体感するために空間を整えるということが逆に場所の性格を特徴づけるということもあるわけで、
その場所でしか経験することのできない音を聴くためにそこに行くということが、
ただライブを観に行くということを超えてもっと研ぎ澄まされたインスタレーションとして成立することになると思います。
日本の古い木造の建物は凹凸が多い分、音楽との親和性も高いと聞きます。
そのあたりをうまく結びつけて考えていくとこれからまだまだ多くの可能性を秘めているように思います。
(その意味で「音の家」は優れたものだったと思います。)

どうやらまた多治見でsonihouseのスピーカーから鳴る音を体感できる機会がありそうなので、今からとても楽しみです!

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