2016/02/23

アダム・カルーソ講演会@京都工芸繊維大学KYOTO Design Lab


アダム・カルーソの日本で(というかアジアで)初めてのレクチャーが開催されるということで、
はるばる京都まで行ってきました!

彼のレクチャーを聴くのはたぶんETHチューリッヒでの、作品集「Almost Everything」出版記念の
展覧会に合わせたもの以来でした。
と考えると5年以上も前で、あれから大きな仕事をどんどん手がけて、
ETHの教授になったり、「El Croquis」や日本だと「a+u」でも特集されたりしたので、
認知度もだいぶ上がったのではないかと思います。
前もって読んだインタビューでも、より「建てる」ということに対する意識が上がり、
スミッソンズとも距離を取りながらこれまでとは少し違ったアプローチを
試みているのかなというのは、計画案からも十分に伝わってきて、
それがいいことなのかどうかはわからないけれど、
ともかく久しぶりに生で聴くレクチャーなのでとても楽しみにしていました。

レクチャーのタイトルは「The persistence of form」、
直訳すると「形態の持続性」という感じでしょうか。
建築のフィジカルな側面とその歴史性、そして都市に与える影響を重視して考える
彼らの思想がよく伝わるタイトルだと思います。
イントロダクションでは建築の歴史と現代建築との関係、
特にその断絶を強調して語り、それは日本においても顕著であること、
そしてモダニズムがそれまでの歴史の否定に立脚していることを踏まえながら、
モダニズム以前の建築においても現代に生きる我々の感覚に訴えかけるものが多くあること、
つまりは建築には時代性だけでは収まらない強度があり、これまである基本的な建築的言語を用いながらでも
今なお建築に対して十分新たな意味を付与できるのだと言っていました。
また、「新しさ」というのは現代においてかなり重要視されていますが、
それが必ずしも建築の質とは結びつかないということを強調していました。
そして映画におけるゴダール、音楽におけるジャズ(アーティスト名は聞き逃しました…)、
絵画におけるピーター・ドイグなどを引き合いに出し、
他分野における優れたものにはそれまでの歴史やさまざまなものが内包されており、
決してそれ単体では成立していないということを言っていました。

その後のプロジェクト紹介では(事務所だけではなく大学のスタジオを含め)、

・参照
・北米の産業/商業建築
・ロンドン

の3つをキーワードに挙げながら作品解説が進んでいきました。

これまでにある建築を「参照」するという考え方は、
スイスでも強く根付いていて、特に建築教育の現場では大変重視されています。
自分も留学当初はそれに対して戸惑いましたが、
優れた建築を知り、それをきちんと理解し分析して特徴を抽出するという作業は、
特に教育においては有意義なものだと考えるようになりました。
今回のレクチャーでもシーグルド・レヴェレンツ、ルイス・サリヴァン、アドルフ・ロース、
アスナゴ・ヴェンダー、クラース・アンシェルムなど、
多くの過去の(そして少しマニアックな)建築家の名前が出てきました。
ETHのカルーソスタジオのHPには、数多くの参照のアーカイヴがあります。)
レクチャー後の質疑応答でも話題になりましたが、参照それ自体が必ずしも
プロジェクトに関して文脈を持つわけではなく、その選択には恣意的な意思が働きます。
つまり音楽になぞらえて話すならば、ソース(=ネタ)を掘り起こし、それらを編集し、
リミックスしていく作業に近いのだと思います。
(そのようなゲームにおいては、大ネタ使いはもちろん馬鹿にされますし、
レアネタを掘り出してくるその審美眼自体も評価の対象となります。)

個人的に印象に残ったプロジェクトは、テート・ブリテンと、Europaallee Baufeld Eでした。
テート・ブリテンは改修のプロジェクトですが、だからこそというか彼らの考え方が如実に表れていて、
この場合は建物自体が参照元であり、新しい部分と修復した部分、
あるいは既存の部分をあえて強調して区別することなく併置しており、
一人(あるいは一組)の建築家がなしたことを誇示することなく、
建物の空間そのもの、そしてその変遷の歴史を重んじる姿勢です。
(このような態度は、デイヴィッド・チッパーフィールドが設計したベルリンの新博物館や、
ミラー&マランタのサン・ゴッタールドにあるサン・ゴッタールドのホテルなどにも近いように感じます。)
このようなプロジェクトは建物自体が長くそこに存在していることが前提としてあり、
そんな状況は日本ではなかなか想像しづらいですが…。

一方Europaallee Baufeld Eは、チューリッヒ中央駅周辺の大規模開発の一貫で建設された
商業・オフィス・住居のコンプレックスです。
ミラノにあるトーレ・ヴェラスカを参照しており、都市における建ち方、
特にボリュームとファサードに対しての注意深さは、
決して派手なものではありませんが、周囲の同じような与件のもと建てられた建築と比較すると、
よりその操作が強調されているように写ります。
ファサードというのは、ともすると表層という言葉で軽薄なものとして片づけられてしまいがちですが、
都市と建築の境界面だと捉えてみれば、その重要性も理解しやすいのではないでしょうか。
(実際多くの人が目にするのはファサードであり、内部空間を体感することができるのはほんの一部です。)

そして彼らの拠点であるロンドンについてですが、
90年代(=彼らが事務所を始めた時期)のロンドンは、景気も悪く、荒んだ雰囲気があったそうです。
しかし、ベッヒャー夫妻をはじめとするデュッセルドルフ芸術アカデミー出身の写真家を引き合いに出しながら、
それでもなお今目の前にある状況の中に美しさを見出すこと、この態度はスミッソンズの言う「as found」に多くを依っているように思いますが、
それが建築家にとってとても大切なのだと強く訴えかけていました。
例えばダミアン・ハーストのコレクションを中心に展示しているニューポート・ストリート・ギャラリーは、
ハーストが買い取ったチープなレンガの建物群のうち、一部を建て替えながらそれらをひとつにつなげて、
状況に応じてさまざまな使い方ができるようになっています。
建物自体は元々ローコストで建てられた非常にそっけないものですが、一方でそうであるがゆえに
ギャラリースペースとしては適していて、建物自体を巡りながらさまざまな空間のプロポーションや
光の状態の中でアートを鑑賞することができます。
ちなみにオリンピック以降ロンドンは好景気でどんどん新しい建築が建っていますが、
カルーソは現在よりも90年代の方が可能性があったと語っていました。
(スターキテクトで鼻で笑うシニカルさはあいかわらずでした 笑)
ちょっと余談ですが、彼らの同じくETHチューリッヒで教鞭をとるトム・エマーソンのいる6a architectsや、
昨年ターナー賞を受賞したASSEMBLEなどのロンドンの若手建築家の態度は、
現在の日本の若手建築家のそれと重なる部分が多いように思います。
カルーソ曰く、それは社会情勢による影響が大きいと言っていましたが、あながち的外れでもないでしょう。
(スイスは概して若手にとってはすごく恵まれた環境なので、その違いが彼にとっては特に気になるのかもしれません。)

個人的に少し物足りなく感じてしまったのは、最新プロジェクトの中のひとつの傾向としてある、
ある種装飾的とも思えるプロジェクトについての言及がなかったことでした。
確かにその萌芽はテート・ブリテンやサンクト・ガレン大聖堂の内陣においても見られますが、
より全面的に採用されている大規模なプロジェクトにどのような考え方をもって取り組んでいるのか、
もう少し突っ込んで聞いてみたかったです。
しかしともかく全体としては、カナダ人らしい明晰な英語で、
内容は複雑ながら日本人にも非常にわかりやすい語り口でした。
それは彼がアイスホッケーの選手でいわゆる体育会系だったということとも無関係ではないのかもしれませんが。
(ロンドン人の英語ではこうはいきません…笑)

さて、今の日本においてこのような考え方はどのようにして援用できるのでしょうか。
それは必ずしも明確ではありませんが、ひとつは物理的のみならず知的財産として
これまで建てられた建築を(既に解体されてしまったものも含めて)保存・活用する術を探ることにあるような気がします。
伝統建築にとどまらず、日本のモダニズムの中にも優れたものが当たり前のように数多くあり、
その価値を現代とつなげて語ることができる部分もまだ残されているように思います。
メインストリームではなく、そこから影響を受けながらも自国の文化との間で揺れ動きながら
危ういバランスで成り立っているものの持つ複雑さ・豊穣さは、解釈としても幅を持たせることができ、
日本人にとってのみならず、とても魅力的なものなのではないかと思います。
(彼らがハーヴァードで教えたときに、みんなでバッファローにあるルイス・サリヴァン設計の
ギャランティー・ビルを観に行ったらしいのですが、そのとき学生は誰一人その存在を知らなかったという話は、
なんとなく素直に笑えない部分がありました…)
歴史的視座に立ち、これから生み出される建築が長いの歴史の延長線上にあること、
そして願わくばその分厚い地層の上にさらなるレイヤーを積み重ねることができるように、
ひとつひとつの建築に対して真摯に向き合っていくことではないでしょうか。

No comments:

Post a Comment